大原野神社のいわれ

e0184554_16495183.jpg 京都市西京区大原野、のどかな田園が広がる南春日町に位置する大原野神社は、延暦三(784)年、第五十代桓武天皇(737~806・在位781~806)の長岡京遷都のおり、藤原氏出身の皇后乙牟漏(おとむろ)が、氏神である奈良春日社(現 春日大社)への参詣(さんけい)が不便であることから分霊し、大原野の地に春日明神を祀(まつ)ったのが始まりとされています。社殿が造営されたのは平安京遷都(794)から五十年あまり後の嘉祥(かしょう)三(850)年、第五十五代文徳(もんとく)天皇(827~858・在位850~858)の即位のときに行われました。このとき初めて大原野神社と命名されました。また、一説には仁壽(じんじゅ)元(851)年、文徳天皇の生母藤原順子(のぶこ 五条后)の願をかなえた、ともいわれています。この年から春秋に二回の勅祭(ちょくさい)が行われました。
 二の鳥居をくぐり、参道を進んで右手に現れるのは鯉沢(こいさわ)の池です。鯉沢の池は猿沢の池(奈良公園内)を模して文徳(もんとく)天皇が造ったとされています。鯉沢の池は睡蓮の花が咲く初夏が最も美しい姿を見せてくれます。太鼓橋の上には大きな帽子をかぶり髭を蓄え、両手で手摺を握りしめたモネの幻影を見ました。
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 参道の左手には瀬和井(せがい)といわれる井戸があります。第五十六代清和(せいわ)天皇(850~881・在位858~876)の産湯(うぶゆ)に使われたと伝えられ、大伴家持(おおとものやかもち)がこの瀬和井(せがい)を歌に詠んでいます。

   大原や せかいの水を 手にむすび 鳥は鳴くとも 遊びてゆかん (古今和歌六帖) 
 e0184554_1703043.jpg手水舎(てみずしゃ)にて神使(しんし)の鹿がくわえている巻物の芯から細く落ちる御水で手を清め、さらに参道を進み石段を七段上がると、狛犬ならぬ雄雌一対の鹿が出迎えてくれます。足をたたんだ雄鹿は口に巻物をくわえ、左側の雌鹿と共(とも)に気高く南の空を眺(なが)めています。
 本殿は一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)で、右(東)から第一殿、建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、第二殿、伊波比主命(いわいぬしのみこと)この二殿は守護神として祀(まつ)られ、第三殿、天之子八根命(あまのこやねのみこと)、第四殿、比売大神(ひめおおかみ)は夫婦で藤原氏の氏神として祀(ま)っています。
 屋根は左右に反り、四社は少しの隙間(すきま)しかとらず、緊張して並立している、珍しい造りです。また、各社殿間は板塀で連結され、四社は手を繋(つな)ぎ、固(かた)く一つですよ、といっているようです。平成十九(2007)年、屋根の檜皮葺は檜皮葺師村上章浩(村上社寺工芸社)の手により葺き替えられました。檜の皮は大原野神社の境内で、永年にわたり神社を自然環境から守ってきた鎮守の森の檜から採取された皮が使われました。輸送コストはゼロ。近年、問題視されている輸送に伴う二酸化炭素の排出も当然ゼロです。まさに地産地消の、究極のお手本です。原材料として育った環境と、建築材料として使用された環境がまったく同じ、ということが建材の伸縮、吸水、温湿度、その他多くのことで建物の寿命に影響を与え、また、それを使う人を心地よくしてくれます。
中門は簡素な形式の薬医門(やくいもん)です。中門の両脇に建つ東廊と西廊は、いずれも正面を柱間五間(はしらまごけん)として連子窓(れんじまど)が嵌(は)められています。それらはいずれも切妻造、檜皮葺の建物で、本殿と同時期の建築と見受けられます。その中門から拝する本殿は参詣者の目に近く親近感を憶えます。正面に張り出している庇の部分を向拝(こうはい)といいますが、その勾配がゆるやかで、優美な曲線を参詣者に見せています。これは発願者や造営者が皇后であり、長く女性に親しまれたことによるところが大きいのであろうと想像します。
  藤原氏は一族に女の子が生まれると、娘が中宮や皇后になれるよう大原野神社に祈願し、願い通りの位(くらい)に就(つ)くと、華麗な行列で参詣しました。
 寛弘(かんこう)二(1005)年、藤原道長の娘、彰子(しょうし)が中宮となった際、派手好みの妹の妍子(けんし 尚侍 のち三条天皇の中宮)と共(とも)に大原野神社を行啓しました。父の藤原道長や紫式部らが同行したことはいうまでもありません。「天皇の行幸と同じようだ(御堂関白記)」と道長は盛大な様子を日記に書いています。このことに由来して、大原野神社は娘に良縁を授(さず)ける神として、厚い信仰を受けるようになりました。
e0184554_165530100.jpg それより遡(さかのぼ)ること百三十年あまり前、貞観(じょうがん)十八(876)年、清和天皇の皇后藤原高子(たかいこ 順子の姪)が、まだ皇太子の御息所(みやすんどころ)であったとき、大原野神社に参詣しました。その時、高子のかっての恋人であった在原業平が右近衛権中将(うこんのえごんのちゅうじょう)としてその行幸につき従い、

   大原や 小塩(をしほ)の山も けふこそは 神代のことも 思ひいづらめ
                         (伊勢物語 第七十六段 古今和歌集十七)
 今日、あなたは祖先を祀(ま)ってあるこの神社を訪れて、祖先を思い出したように、大原の地にある小塩山(おしおやま)も、きっと昔を思いだしていることでしょう。私もはるか昔の貴女(あなた)とのことを思い出しておりますよと詠みました。若き日の恋人に再会し、高子が車から直接引き出物を渡した際に、この歌を贈(おく)ったといわれています。
 平安時代の中期には藤原氏の隆盛と共(とも)にその氏神として大きな地位を占め、天皇や皇后の崇敬も厚く、官祭である大原野祭には勅使が派遣されていました。また、伊勢の斎宮(さいぐう)や加茂の斎院(さいいん)にならって、九世紀の一時期だけ大原野神社の祭に奉仕する未婚の女性、斎女(いつきめ)が置かれていました。ちなみに、松尾神社では斎子(いご)といいました。
 本殿の西脇には左から藤森(ふじのもり)社・白髭(しろひげ)社は合祀(ごうし)され、稲荷社、八坂社、の末社が並び祀(まつ)られています。鯉沢の池のほとりに祀(まつ)られた地主社(じぬししゃ)、他(ほか)に祓戸社(はらえどしゃ)、若宮社などが祀(まつ)られています。
 建武(けんむ)三(1336)年には、足利尊氏によって、社領の所有と祠祭の権限を再認されたことにより、室町幕府の祈願所になりました。しかし、藤原氏の衰退と応仁の乱以降、社運が次第に衰え、祭儀も途絶えがちになり、社殿は次第に荒廃していきました。本殿が再建されたのは江戸時代初期、慶安(けいあん)四(1652)年に第一〇八代後水尾天皇(1596~1680・在位1611~1629)の手をまたなければなりませんでした。
 秋には江戸時代の享保(きょうほう)二(1717)年より続く伝統行事の御田刈祭(みたかりさい)が行われ、境内の土俵は毎年、子供たちの奉納相撲大会(9月の第2日曜日)でにぎわいます。
 この奉納相撲の起源については逸話が伝わっています。古く、南春日町(旧   )は、桂川の水を巧みに使って稲作を広めながら上流を目ざした秦氏が住み着いた地域(桂川西岸)です。現在でも秦氏に由来する、畑、播、上田という姓が多く見られます。
 北春日町(旧 野田地区)は大原野神社が創建された際、神の祭りを司る藤原氏が移住し、住み着いた地域といわれています。心を清めて神に仕えるという意味の「斎(いつき)」と藤原氏の「藤」を合わせて「齋藤(さいとう)」という姓になったと地元では伝えられています。現在では、同じ「齋藤」姓が非常に多く、屋号で呼び合っています。後からこの地に住み着いた齋藤一族はすでに住んでいた秦一族と、当然のように折り合いが悪く、このことを解消するために、相撲を始めて親睦を図ったのが奉納相撲の始まり、と伝えられています。
 慶応元(1865)年に賀茂祭、石清水祭の勅祭に次いで大原野祭が官祭として復興されました。
 平安の世から続く、大原野神社は今も尚(なお)文化の発信地として人々のよりどころとなっています。
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# by nishikoji727 | 2010-05-18 17:06 | 大原野神社のいわれ